「自らについて語ること」をしようとすると、途端に自分の言葉ではないような気がしてしまい、上手く話せなくなる。
ただ今回はそんな自分に向けて書き残してみることにする。
自分の体験から感じた、内側から湧き出てくる言葉には価値があるはずだし、それを見つけることこそが”生きていくこと”だと考えている。
ここには誰かからの借り物の言葉は一つもないし、誰かからの称賛が欲しいわけでもない。
ここにあるのは、120%全て、嘘偽りない、僕の言葉だ。
筑波大学蹴球部での4年間を振り返ってみる。
僕は、全ての時間を2軍で過ごした。
一年生。高校の最後に出した結果からくる自信とフレッシュマン期間の好調から、2軍に配属された。しかし、Iリーグは後半途中に知久と交代で入った1試合の出場のみ。夏に内側側副靱帯II度損傷。サッカーをしたのは4ヶ月。大学最強のトップチームの存在は遠のいていた。
二年生。彷徨っていた。1トップをやったりもした。夏までは好調で、新人戦でもIリーグでも多く試合に出場した。しかし、秋からはポジションを徐々に失う。チームは結果が出ていたが、僕はメンバー外でトップのTMの人数合わせに行くことが続いた。
最初の二年間を振り返れば後悔ばかりが出てきてしまう。
自分の弱さと向き合えない。その時のチーム状況でチームの為にやれることを本当にすべてやれていたのか。筑波に来た意味をもっと考え、自分と向き合って行動に移せ、とその時の自分に言いたくなる。
サッカーをやれることの幸せを本当に感じているのか、と。
三年生。サイドでのポジションに居場所を見出し始める。ようやく、試合に決定的な影響を与えるプレーでチームに貢献できることが増えてくる。選手としての新たな自分を見つけ、これまでにない感覚でサッカーをし始めていた。夏が終わるころ、Iリーグ優勝も見える位置につけていた。
そんな、三年生の9月6日。日曜日に青山学院大でのアウェー戦を控えた2日前のTR。週末には親も来てくれると、意気込んでいた。
試合形式のメニュー、浮き球を処理しようとして右脚を大きく伸ばすと、身体が経験したことのない動きをした。見上げていたボールが落ちてくるのはスローモーションになり、軸足の左膝が鳴らした「バキッ」という音は脳裏に強く焼き付いた。
週末に親が来てくれることになったのは、青山学院大学グラウンドではなく、病院になった。
診断結果は左膝前十字靭帯損傷、外側半月板損傷、内側側副靭帯損傷。
膝の外、中、内にある全ての靱帯を痛めるのは、”ハッピーセット”と呼ばれるらしい。
全治は7-9カ月、早くて来シーズンの5.6月に試合復帰くらいかな、と言われた。入院から手術までは空いている広い1人部屋に入れてもらい過ごしたのだが、無駄に部屋が広いのが孤独を助長させ、この時期にこんな大怪我を負ってしまった現実を受け止めきれず、途方に暮れていた気がする。壁に貼ってあった田んぼの絵をぼーっと眺めながら。
ただしかし、3週間後退院する僕が感じていたのは、そうした喪失感とは全く違う、病院に駆けつけてくれた家族や仲間への感謝の気持ちと、これから自分の前に広がる可能性への希望だった。
怪我をしてから気付くのでは遅いのだけれど、これまでの選手生活への後悔も全てひっくるめて、僕はこの怪我をターニングポイントにしたい、と強く心に決めた。
それまでとそれからの僕の蹴球部生活を比べると、同じ時間でも、濃密さという点で天と地の差があるように感じる。
それからの日々は、とても早く過ぎ去ったように感じる。
先の見えないリハビリには心の折れそうなタイミングが何度もあったが、常に一番近くにいてくれたトレーナーやPTの方々のおかげで乗り越えることができた。
一日中リハビリルームにいたこともあった。
とにかく、その期間の僕の全ての情熱は、復帰して生まれ変わった姿を見せるという一点に向けられていた。
リハビリの思い出は語っても語り尽くせないだろう。
6月には完全復帰をした。
9か月ぶりに戻ったピッチで、僕はサッカーができる喜びを全身で噛み締め表現していたように思う。
あんなにもサッカーを楽しめたことは、これまでも無かったし、きっとこれからも無いんだと思う。
復帰して一カ月。4年間で初めて、トップチームとして出場する大会に登録された。天皇杯だ。
ただ、それはあくまでも通過点。
目指すのはそこで活躍してサッカー選手として誰かに認めてもらうこと、と言い聞かせ、常に上を向いていた。
ここからが本番だ、と思っていた。
そして、一度目の怪我から丸一年が経った9月6日。
僕はその夜、一年前とは逆の右膝に青い装具を付け、松葉杖をついていた。
一年前と同じ日、同じグラウンド、同じ時間。
4月からスタッフとして指導してきたフレッシュマンコースの集大成の試合。僕は相手となるTOPsubチーム側で出場していた。
サイドでのトランジションでボールに足を出した瞬間、濡れたピッチに足を滑らせていた。
右膝に感じたのは一年前と同じ音。
担架でピッチの外に運び出されてから試合終了まで、僕はそこから動くことができず、ただぼぉーっとピッチを見つめていた気がする。
TOPsubのみんなが心配して寄ってきてくれたことと、先制されたけど後半に逆転して勝ったことは覚えている。
試合後にスマホを見ると通知には母からの「あれから1年が経ったね」というメッセージ。
僕はなんて返したら良いのか分からなかった。
次の日、MRIを撮って一週間後には同じ手術を受けていた。
病院の看護師さんには「おかえり」と言われた。
前十字靭帯は切れていても日常生活には最悪支障はきたさないらしく、再建手術をせず、ある程度回復するのを待ってテーピングをぐるぐる巻きにしてプレーをするという選択肢もあった。
でも、その決断はしなかった。
次に向かおう、と思ったからだ。
一度目の怪我をした時に固めた決意から一年間、復帰して自分の足で道を切り開くという唯一の目標に向かって情熱を燃やし続けた時間に対して、後悔など一つとしてあるはずがない。
その結果がこうなのであれば、次はまた自分が同じだけの熱量を傾けられるものに目を向けて進んでいこう。
そう考えた僕が、退院してそのまま向かっていたのは、二度の怪我をした、1Gだった。
そして僕は今、2年連続で術後3カ月目の12月を生きている。
順調にいけば術後3カ月でジョギング開始なのだが、ほとんどリハビリをしていない僕は走り始められるのだろうか。
そんな不安を抱きながらも、毎日グランドに向かい、トレーニングを間近で見ていると身体が勝手に動いてしまいそうになる。
「勝利のホイッスルをピッチ上で何回聞けるか」
大学三年のシーズンが始まる時の目標シートに書いた言葉だ。
もうピッチ上でホイッスルは聞けないかもしれないが、僕の気持ちは常にピッチの中にあるし、味わう勝利の歓喜はこれまで以上に格別なものになるんだろう。
週末には天皇杯と二つ勝てば全国大会にいけるIリーグの決勝リーグがある。
四年間を共に過ごした仲間と共に、僕はどんな言葉を見つけられるだろうか。
共に、闘おう。
筑波大学蹴球部
体育専門学群4年
賜正憲