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2023

#153 人生をかけた2年間の闘い(三科安晃/4年)

今年度の共通テストが終わり、いよいよ受験生にとっては受験勉強もクライマックスの時期になりました。
この季節になるといつも受験生だった頃の自分を思い出し、感慨深くなります。

はじめまして。
ブログを見てくださり、ありがとうございます。

筑波大学蹴球部4年の三科安晃です。
自分は、滋賀県の膳所高校を卒業し、現役で大阪教育大学に合格し2年間在籍していましたが、途中で退学し、筑波大学に再入学するという異色の経歴を持っています。そのため、大学院生でも医学部生でもないのに、大学生活は今年で6年目の大ベテランになります。

冒頭にも書いたように、自分はこの季節になると受験生時代の自分を思い出し、感慨深くなります。
それは、高校を卒業して筑波に入学するまでの2年間が、今の自分を作ってくれた最大の出来事だと思っているからです。

このブログでは、そんな最大の出来事である自分が大阪教育大学から筑波大学に再入学するまでの浪人生活について書きたいと思います。

タイトルに「人生をかけた挑戦」とありますが、今となっては大袈裟に考えすぎていたなと思います。しかし、その当時は、本気でこの浪人期間が、「人生をかけた挑戦」だと思っていたし、失敗したら人生が終わるとさえ思っていました。そういう想いでずっと頑張ってこれたからこそ、あの時の挑戦がうまくいったと思っています。

前置きが長くなりましたが、このブログを読んで、少しでも多くの人、特に受験生に勇気を与えられると幸いです。


「本気で〇〇大学を目指したい」「本気で〇〇という夢を叶えたい」
誰もが一度はこのようなことを思ったことがあると思う。自分もそうだった。
大阪教育大学に入学して数ヶ月がたった2019年8月、僕は本気で筑波大学を目指すことを決心した。
理由は、このまま過ごしていても自分が思い描く人生を歩めないと思ったから。筑波大学なら自分が思い描く、人生を歩むことができるんじゃないかと考え、両親や大学のサッカー部の同期など色々な人に相談し、筑波大学を目指すことを決心した。

本気で筑波大学を目指すにあたって受験に集中するため、2019年8月に所属していた大阪教育大学サッカー部を退部、大学も休学した。
大阪教育大学サッカー部は良い先輩や同期に恵まれて、本当に心地良い環境だった。もっともっとこの人達と一緒に過ごしたい。もっと一緒にサッカーしたい。なんでこんな良い環境を捨てて、わざわざ苦しい道を進もうとするのか。
何度も何度も悩んだが「自分のより良い人生のため」そう自分に言い聞かして、大阪教育大学に別れを告げた。

そして、僕の筑波大学を目指す闘いが始まった。

自分は筑波大学の中でも体育専門学群に行きたかった。
体育専門学群は、センター試験700点、2次試験の実技600点(実技の600点のうち、400点が自分が1番得意な種目、200点は自分が2番目に得意な種目を選ばないといけない)、保健体育の小論文100点の計1400点という配点である。
体育専門学群に合格するには、センター試験のための勉強と2次試験の実技対策をする必要がある。

まず、センター試験でしっかりと得点できるように、浪人生になってすぐ塾に入った。
塾に入ってからは、毎日塾に通い、自習室で1日8〜10時間は勉強したと思う。
大学生活に慣れきっていた自分が、真面目に毎日長時間勉強できるか不安だったが、良い感じに成績が伸びていたこともあり、モチベーション高く勉強し続けることができた。
実技の方は、サッカーを第1選択種目で受験することになっていたので、地元の社会人チームに入れてもらって、2週間に1回の練習と週末に行われる試合に参加し、衰えないようにしていた。

そんなこんなで1月のセンター試験を迎えた。
結果は、A判定。
上々の滑り出しだった。
センター試験が終わり、次は実技対策である。
第1選択種目であるサッカーはこれまでと同じように社会人チームでプレーして、サッカー感が衰えないようにしていた。
第2選択種目では、テニスを選択した。いとこのおじさんがテニスのコーチだったので、毎日のように特訓してもらった。

そして、迎えた2次試験。少しミスはしたが、センター試験でA判定だったので、受かったんじゃないかと思った。
不安がありながらも、ワクワクした気持ちで合格発表を待った。

合格発表当日。両親と一緒に自分の番号を確認した。

自分の番号がない、、、

頭が真っ白になった。それと同時に、すごく恥ずかしい気持ちになったのを今でも鮮明に覚えている。
「人生を変えるのために、筑波大学を目指す」と大そうなことを色々な人に言っていたにも関わらず、結果は不合格。
本当にショックだった。

不合格が決まってから数分、自分の口からこんな言葉が出ていた。

「もう一回、挑戦させて欲しい」

不合格になり、情けなかった。ただ、
人生をかけた挑戦をこんな一回不合格になったくらいで諦める方がもっと情けなかった。
まだまだやれる。自分は甘かった。全力を尽くした気になっていた。人生をかけるほどの努力ではなかった。


絶対に来年のこの日、応援してくれる人達のために自分のために、もうこれ以上頑張れないと思えるくらい努力して、圧倒して合格してやる。そう心の中で誓った。



こうして、筑波を目指す闘い第二章がスタートした。


春から夏にかけては大学に行きながらの生活だった。大阪教育大学のサッカー部の人達の力を借り、出来る限り授業を切りながら受験勉強する日々。
2浪なので、勉強のストックはかなりあった。
勉強は、1浪目に通っていた塾に再入塾し、その自習室でやっていた。

毎日9時間勉強するくらいだったと思う。
自分の中でまだまだ勉強に関しては伸び代があると思ったので、今まで時間がなくてできなかった応用的な参考書を買って、勉強した。
新しい学びがたくさんあり、楽しく勉強できていたと思う。

しかし、勉強だけをしていればいいわけではないのが筑波大学体育専門学群。
体育専門学群に受かるためには実技対策が必須となってくる。2浪目も当たり前だが、体を動かす必要があった。
そのため、1浪目に所属した社会人チームにももう一年お世話になる旨を伝え、再入団した。
しかし、1浪目は大阪教育大学で8月までサッカーしていたこともあり、社会人チームだけでも十分だったが、今回は受験まで1年ある。
さすがにまずい。
社会人チームだけじゃ足りないなと感じた。
そこで悩んだあげく出てきたのが、サークルに入れてもらうという選択肢だった。
家から電車で1時間くらいのところに京都大学があったので、そこにあるサークルに入れてもらおうと考えた。
良さげなサッカーサークルをTwitterで探し出し、入部希望のDMを送り、入れてもらうことになった。そこから週2回、社会人とは別でサッカーサークルでの活動も始まった。
自分以外は皆んな京大生だったので、仲良くなれないんじゃないかと心配したが、皆んなが仲良く接してくれて、すぐに打ち解けることができた。
大学を違う自分を快く受け入れてくれた京大のサークルの人達には本当に感謝している。
社会人チームに京大のサッカーサークル。塾では知り合いもおらず、1人で黙々と勉強していただけに、これらのコミュニティで色々な人々と交流できたことは良い気分転換にもなっていた。

そして、春が終わり夏を迎えた。
世間では、夏休み。同い年の大学生達は、海に行ったり、バイトに明けくれたりととにかく楽しそうだった。
しかし、受験生は違う。勝負の夏で勉強の追い込み時。とくに2浪生は夏にサボるといくらこれまでのストックがあっても現役生や1浪生に追いつかれてしまう。
1週間くらい遊んでもいいかという気持ちに何度もなったが、筑波に受かった自分を想像し、遊びたい気持ちを抑え、一日10時間勉強した。
勉強の成果が出たのか、夏終わりの模試では、余裕のA判定だった。

ただ、ここで忘れてはいけないのが、実技対策。サッカーはまだしも、第2選択種目が大ピンチだった。
2浪目は1500mを選択したが、5分を切ったことは人生で一度もなかった。
筑波の第2選択種目 の1500mは4分30秒を切れば良い点数が貰えると言われている。
しかし、5分を切ったことない自分にとっては夢のまた夢。
走るのも嫌いで本当に練習するのが憂鬱だった。
ただ、やるしかなかった。
人生掛けてるんだろ?だったら、死ぬ気で走れ。自分に何度もいい気かせて、1500mの練習をした。
1500mの練習はタイムを測ってくれる人も一緒に走ってくれる人もいない。
鼓舞したり一緒に競い合う人がいない走り込み練習がどれだけキツいか、スポーツをやっている人ならわかると思う。
何度も心が折れかけた。
でも、走るしかない。
筑波に受かった自分を想像しながら走った。
ストップウォッチ片手に、田んぼ道を毎日1人で走りまくった。
雨のだろうが、クソ暑い日だろうが、台風がこようが走った。
自分で自分を鼓舞しながら、1人で追い込み続けた。
その結果、夏が終わる頃には見違えるほど体力がついていた。

そんなこんなで秋になり、受験シーズンの冬に突入した。

この時期は、大学は休学し、今までやってきたサッカー、1500mの練習をを全て辞め勉強に全てを捧げた。
この時期の主な日課はこうだ。
朝6時に起き、6時代の電車に乗って京都に行き、高校時代の友達に協力してもらい、京都の勉強できるスペースで11時半くらいまで勉強した。
そして、昼になるとイオンモールの丸亀製麺でうどんを食べる。
食べたあとはどうしても眠たくなるので、仮眠を取るため、イオンモールのソファーで15分目を瞑る。
その後13時〜22時までノンストップで塾でまた勉強。
帰りも家まで電車で1時間くらいかかるので、電車の中でひたすら問題を解く。
この生活をひたすら、繰り返した。

そして、年を越し、センター試験まで約1週間となったある日。2浪生にとっては大きな決断をしなければならない日が来る。

成人式に行くか行かないか問題だ。

成人式に行けば、懐かしい顔ぶれに会うことができる。
そして、何より自分は成人になった晴れ姿を祖父母や両親にも見せてあげたかった。
それでも、センター試験まで残り1週間、行くべきか行かないべきか究極の選択だった。
模試ではずっとA判定で勉強には余裕があったので1日くらいいいじゃないか。全て参加しなくても少し顔を出すくらいならいいかとも考えた。
しかし、自分は行かないと言う選択肢を取った。

ここで成人式に行って、もし仮に筑波に落ちたら、一生後悔すると思った。
これは自分の人生がかかった大勝負。最後まで油断せずにやり続けろと自分に言い聞かせた。
祖父母や両親に晴れ姿は見せてあげられなかったが、絶対に合格した姿を見せて喜ばせる。
そう心に誓って、自分は、成人式の日も塾の自習室に向かった。

そうして自習室で勉強しているとLINEグループに流れてくる同窓会の写真がたくさん送られてきてた。
その時、自分の目から涙がごぼれ落ちていた。
同い年の人は、スーツに身を包んで楽しんでいる一方で、自分はまだセンター試験の過去問を解いている。
本当に自分が情けなくてしかたなかった。
この年にもって何やってんだよ。
自分が負け犬のようで悔しくてたまらなかった。
それでも、筑波に受かっている自分を想像して勉強し続けた。

そんなこんなで、センター試験まで残り3日。もうあとは、本番に向けてコンディションを整えていくだけという時期に、アクシデントが発生する。

真夜中、お腹に激痛が走ったのである。

痛くて痛くてたまらない。市販の薬を飲んでも治らない。
病院に駆け込んだ。病院では、あまりにも痛かったので、胃カメラを飲むことになった。
胃カメラが終わり医師からはこう告げられた。

「胃潰瘍ですね。もう少しで胃に穴が空くところでした。」

筑波を目指す最後のチャンス。絶対に失敗できないというプレッシャーが原因で、体が悲鳴をあげていたのだと思う。
ただ、胃潰瘍だろうがセンター試験が3日後にあるのは変わらない。どんな状況であれ、勉強しなければならない。自分は薬を貰い、それを飲んで、自習室で勉強し続けた。

そして、迎えたセンター試験当日

これまでのどんなサッカーの試合よりも、学校のテストよりも、現役、1浪目のセンター試験よりも緊張した。おそらく、これを超える緊張はこれからもないだろうと思う。

そんな極度の緊張の中で戦ったセンター試験。
結果は

過去最高得点

センターリサーチも余裕のA判定だった。
自己採点後、笑みが止まらなかったし、本当に嬉しかった。
しかし、これで絶対に受かったとは全く思わなかった。
去年はここで油断してしまい、落ちている。
今年は、絶対に最後の最後まで気を抜かずにやり続ける。2次試験までの残り1ヶ月、死ぬ気で走って1500mで4分半を切ってやる。
そう意気込んで、受験生最後の1ヶ月が始まった。

午前は走って、午後はサッカー、夜は保健の論述勉強というサイクルを繰り返した。
11月くらいから全く運動してなかったので、はじめの方は体力を戻すのに苦労したが、徐々に体力も回復して、走れるようになってきた。
サッカーも社会人チーム、そしてサークルでの活動を再開させ、サッカー感が戻ってくるようになった。
保健の論述勉強も決して手を抜かず、塾の先生に添削をお願いしながら、勉強していた。

試験まで残り1ヶ月、ゴールがもう目の前まで見えてきていたので、モチベーション高くやり続けることができた。

そして、迎えた2次試験。 

1日目は保健の論述とサッカーの試験を行い、特に問題なく終了。
そして2日目の1500mの試験も4分29秒でゴールすることができた。
1500mに関しては、練習で1度も4分30秒を切ったことが無かったが、本番で切ることができた。この1年間苦しくても苦しくても、決して妥協せず頑張り続けてよかったと心から感じた。

そして、合格発表当日。

合格者の中に自分の番号があった。

合格だ。

1年前、不合格になったあの日から、筑波に受かることだけを考えて、努力してきただけに、喜びはとてつもなく大きかった。
自分の2年間の努力が実った瞬間だった。

こうして、自分の筑波大学を目指す闘いが幕を閉じた。

そして今、自分は筑波大学を卒業しようとしている。

筑波では、沢山のことを経験させてもらった。
選手として、日々、レベルの高い選手たちと切磋琢磨しながらサッカーすることができたし、ピッチ外ではスポンサー局長として他の大学ではできないような経験をたくさんすることができた。
学業でも、自分が研究したかった研究することができたし、バイトでは沢山の人と出会い楽しく過ごすことができた。

心から筑波大学に来てよかったと思っている。

このような経験ができたのは、浪人時代の自分が死ぬ気で頑張ったから、そして、それをたくさんの人が支えて応援してくれたからだと思う。

自分を送り出し応援してくれた大阪教育大学のサッカー部の人たちや一緒にサッカーしてくれた社会人チーム、京大のサッカーサークルの人たち。
勉強を教えてくれた塾の方々や自分が勉強する環境を作ってくれたり、一緒にサッカーしてくれた高校時代のサッカー部のチームメイト。
そして何より、自分の挑戦を何一つ、否定せず、最後の最後まで応援し、支えてくれた両親には感謝しても仕切れない。
このような人たちに恵まれて、自分は本当に幸せだったと思う。

この場を借りて、感謝を伝えたいと思う。

「支えてくれた人のおかげで今の自分があります。本当にありがとうございました。」

そして、大阪教育大学を辞めて筑波大学を目指し必死になって努力した過去の自分にも1つ伝えたい。

「本当に妥協せず頑張ってくれてありがとう。お前が、必死になって頑張ってくれたから最高の大学生活を送ることができた。」と。


これからの人生で、もっと辛いこと苦しいことをたくさん経験すると思う。
その度に、逃げたい、辞めてしまいたいと思うはず。

そんな状況から逃げるのも良いと思うし、逃げずに歯を食いしばって努力するのも良いと思う。

一番大切なのは、


その選択で、未来の自分が後悔しないか


だと自分は思う。

他人がどう思うかなんて関係ない。

どれだけ他人と違おうが、ぶっ飛んでいようが関係ない。

これは自分の人生。

自分が達成したい目標、叶えたい夢に向かって、全力で後悔ない行動をすることが1番楽しくて、生きてて楽しいと思う。
実際に、筑波を目指した2年間も、他人からしたら意味わからないし苦しいことも多かったけど、自分にとっては楽しくて最高に充実していた。


そして、夢や目標に向かって全力で行動する人には自然と人が集まってくると思うし、味方となって応援してくれる人が必ず現れる。
それは両親かもしれないし、友達かもしれないし、これから初めて出会う人かもしれない。
自分を支えてくれる人を大切にし、時には力を借りながら、自分の夢や目標に挑戦し続けてみてはどうだろうか。


たった1度の人生。
納得のいく充実した人生を送ることができるように、これからも自分らしく精一杯行動していきたいと思う。


拙くて長い文章でしたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。
皆さんに何か少しでも伝えられたことがあれば、幸いです。

今後とも蹴球部をよろしくお願いいたします。


筑波大学蹴球部

体育専門学群4年

三科安晃


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