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2021

#102 自分なりに(岩浅歩杜/新4年)

 

はじめまして。

2021シーズン筑波大学蹴球部の副務を務めます、岩浅歩杜と申します。

よろしくお願い致します。

 

つい最近部員ブログの主となった同期の人から、

今シーズン副務を務めるにあたっての抱負を書いてくれとお願いされたので、

何かと忙しいこの時期にパソコンと格闘する羽目になっております。

 

そんな私が、皆様の前で「副務」としてご挨拶するようなことは、

おそらくこれが最初で最後でしょう。

 

自分なりにこの「副務」との向き合い方を考えてみたので、少し長いかもしれませんが

ご一読いただけると幸いです。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

抱負:「自分なりの副務」であり続けること。

 

 

「副務」とは?

 

インターネットで検索しても、これといったものはありません。

いったい「副務」って何なのでしょうか。

 

 

 

私が、2年生のときに「副務」を務めると決めたのは、自らの立候補ではありません。

 

もともと私はこういった役職に自分から就きたいと思うような人間ではなく、

大勢の人前で話すことも苦手ですし、俺について来いとか言うタイプでも全くないです。

 

 

ではなぜ「副務」になったのか。

 

 

「歩杜なら」って周りの同期から推薦されて、そんな信頼が嬉しく、彼らの期待に応えたい、

彼らのために行動したいと思ったからです。

 

このときの「歩杜なら」という、いわゆる周りから見える自分らしさに、

何が込められていたのか、今となってはわかりません。

 

それでも当時、蹴球部のために自分がやるべきことをきちっとやってきたという責任感や、

一人一人の部員に寄り添い、彼らのために自分にできることはないかと起こした行動は

人一倍あったという自負があります。

 

きっと同期も、そんな私をみて「歩杜なら」と言ってくれたのでしょう。

(直接確認するのは怖いので、聞いたりはしませんけど)

 

 

そんなこんなで昨シーズン1年間「副務」を務めさせていただきました。

 

結果:「自分」を見失いかけました。

 

理由:「副務としての自分」を目指してしまったから

 

どういうことか。

 

 

「副務としての自分」であり続けることで、

「副務」という役職に対する、本来ありもしないはずの観念が勝手に自分の中で生まれ、

次第に「自分」を飲み込んでいったのです。

 

「副務」として「自分」はこういう姿

(格好いい姿で部を引っ張る、論理的な思考で意見を述べる、MTをテキパキと進める…)

であるべきだと考えるばかりの日々。

 

そもそも先ほど検索したように、副務=○○といったものはないはずなのに…

 

同期からの信頼が嬉しく、彼らのために行動したいと思う「1人の蹴球部員としての自分」は跡形もなく消え去り、「副務としての自分」に必死に執着する自分だけが残りました。

 

情けない話です。

 

 

 

それを救ってくれた人、

 

やはり同期でした。

 

その同期には感謝してもしきれません。

(本人にそんな意図はなかったのかもしれませんが…。)

 

 

 

2021シーズンに向けて学年MTを行っていたある日のこと。

 

私は例のごとく「副務としての自分」で、そのMTの進行係をしていました。

その日のMTは長引き、上手く時間調整できなかったことで、

「副務としての自分」にあるまじき姿であったことを私は恥じます。

そして、みんなの意見に耳を傾けることなく、駆け足でMTを終わらせようとしてしまいました。

 

そのMT後、ある同期から1つのLINEが届きます。

 

「進行役のお前があんな態度だと、意見言いたいと思っても言えなくなるよ。」

 

 

愕然としました。

 

 

同期からこのようなことを言われてしまう自分になってしまったのか…

 

 

 

 

「役職(肩書き)」には「自分」をも飲み込んでしまう恐ろしい副作用があるということを

身をもって経験しました。

 

 

「自分を変えるために、役職に就く(肩書きを取得する)」ということはよくあると思います。

 

(ちなみに、2021シーズン主将を務める幹もこの想いが強く、並々ならぬ覚悟で主将を務めます。実際に主将になってからの彼は少なからず変化しているように感じます。)

 

実際に自分も「副務」にならないとできなかった素晴らしい経験をたくさんさせていただきましたし、「副務」が良い変化をもたらしてくれたことも多々ありました。

 

 

それでも、

いくら「役職(肩書き)」に「自分」を変える力があったとしても、

 

飲み込まれてしまったら、その瞬間これまで積み重ねてきたものがおしまいになります。

 

 

そこに残るのは「自分」という唯一無二の存在ではなく、

誰にでも憑依できる「役職(肩書き)」というラベルでしかないのだから。

 

(ラベルという語は、尊敬する金井さんのブログ〈https://www.tsukubashukyu.com/blog/detail/id/16327〉から拝借させていただきました) 

 

その役職に就きたかったのはなぜなのかという理由を、

就くことでどうなりたかったのかという姿を、「自分」を見失ってはいけない。

 

だからこそ、当たり前かもしれないけど

 

「○○としての自分」を目指すのではなく、

 

「自分なりの○○」を突き詰めていくことの方が大事なのかな

 

そういまは強く感じています。

 

 

 

だいぶ長くなってしまったので、

“自分なりの副務” を考え、おわりへと向かいます。

 

2021シーズン、筑波大学蹴球部は「再醒」というスローガンを掲げました。

 

そのスローガンの下、主将の幹、副将の匠人・立樹・怜音、主務の太一を中心に、

尊敬する同期、頼もしい後輩たちが1つとなって蹴球部は動いていきます。

 

その蹴球部で、2021シーズン「自分」は何をするか、どんな存在になるか、考えました。

(選手として自分史上最高を目指す・「副務」に依頼される仕事をこなすことは大前提として)

 

「筑波大学蹴球部の最後尾に存在し続ける」

 

これに尽きるかなと思います。

 

蹴球部は常に前を向いて走っていく集団です。

 

しかし、決して周りを蹴落としあうような集団であってはいけない。

 

 

先頭集団だけが突っ走ってしまい、誰もついていけなかったら…

 

走るのが少しきつくて立ち止まってしまった時に、振り返ると後ろに誰もいなかったら…

 

 

だからこそ、私はそこにい続けられる存在でありたい。

 

見捨てることなく「自分」を取り戻してくれた同期がいてくれたように

 

先頭集団で道を切り拓く部員も、それについていこうと必死に食らいつく部員も

それぞれが安心して “自分なりに” 前を向いて走ってもらえるように

 

 

最後尾が一番みんなのことが見えるから

みんなのために動いているときが「自分」らしいと感じられるから

そんなみんなが輝いているときが「自分」にとって最高の幸せだから

 

それが、この筑波大学蹴球部において唯一「自分」だからできることであり、

“自分なりの副務”なのかなと思います。

 

 

(結局、「副務」って何なんでしょう。  

筑波大学蹴球部歴代副務の方々が考える「副務」を聞いてみたい気がします…。)

 

 

拙く、まとまりに欠ける文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

さいごになりますが、厳しい状況の中でも日頃より人々のため、社会のために

ご尽力いただいております全ての皆様方へ、この場を借りて感謝申し上げます。

ありがとうございます。

 

“いま自分たちにできることを”

 

2021シーズン筑波大学蹴球部は “筑波大学蹴球部なりの姿” で、

少しでも多くの方々に良い影響を与えられるよう活動して参ります。

 

これからも筑波大学蹴球部をよろしくお願い致します。

 

 

 

 

筑波大学蹴球部

体育専門学群 新4年

岩浅歩杜


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