最後の公式戦での選手紹介で、「不運」な選手と言われた。
母親にも、「あんたは本当についてないね」と言われた。
今考えると確かにそうかもしれない、と思った。
こんにちは。
日頃より筑波大学蹴球部へのご支援、ご声援誠にありがとうございます。
筑波大学蹴球部4年の家田航輔と申します。
稚拙な文章ですが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
少し昔の話をします。
高校3年時、私はサッカーと勉強に明け暮れていました。高校サッカーで活躍し、筑波大学に入学するためでした。高校もサッカーを基準に選び親を説得し入学させてもらった為、結果を出したいという想いは常に持っていました。
でも、選手権のメンバー発表で私の名前は呼ばれませんでした。それどころか、私は一度もTOPチームの公式戦に出場する事ができませんでした。
理由はもちろん下手だから。
そこからは自習室に篭り、勉強する日々が続きました。自習室の窓からは、選手権に向けて準備するTOPチームの姿が見えました。私は自習室の机の陰に隠れて、誰にもバレないように静かに泣きました。
学力も受かるかどうかのレベルだった私は仲間を応援する事もせずに受験勉強をしていました。夜テレビで放送されていたスポーツニュース番組で初めて、彼らの活躍を知りました。
「俺何やってんだろ」
嫌になりそうな自分との長い戦いでした。
その甲斐もあって、何とか筑波大学に合格することができました。
私が蹴球部の門を叩いた理由は1つで、「活躍できなかった高校時代のリベンジをする為」でした。それはまさしくフューチャーブルーのユニフォームを着てプレーする事であり、活躍する事でした。私は高校での経験もあり、TOPチームで活躍することに拘っていました。私は練習に明け暮れる毎日を過ごしました。
1年目。4軍に配属されたものの先輩の怪我などもあり2軍で試合に出ることができました。新シーズンに向けてTOPチームと合同でトレーニングをする機会がありましたが、私はゲーム形式の練習すらできず、グラウンドの隅で少人数でトレーニングをしていました。
2年目、2軍で複数得点を重ね、新シーズンからTOPチームに昇格することができました。1年目よりも自分のプレーに手応えがありましたが、やはり力及ばずBチームに降格してしまいました。
3年目、思うように活躍できなかった私はBチームでベンチに座る日々を過ごしました。公式戦に途中出場する事はできていましたが、1点も取る事ができず、新シーズンのTOPチームのメンバーリストにも私の名前は当然ありませんでした。
4年目、最後のシーズン。
Bチームでのスタートとなりました。BチームもIリーグで日本一になるチャンスがあります。日本一を自分の代はまだ経験できておらず、自分の代で日本一になりたいと強く思っていました。またTOPチームで活躍する事にも大きなモチベーションを持っており、これまで以上に気合いの入ったシーズンになりました。
4年生だけで行った決意表明のミーティングでも、この気持ちをみんなに向けて伝えました。
よし。行こう。今シーズンこそ、やってやろう。
そう思っていました。
その次の日でした。
アウェイでの練習試合。
失ったボールを取り返しに守備に戻った際の切り返しで、膝に突然強烈な痛みを感じました。
何が起こったのかもわからず、ピッチの外で待機していましたが、痛みも無くなったので「いけます」とコーチに伝えました。しかし周囲から止められ、その日は大事をとって出場しないことになりました。
膝の怪我をした事がある人は共感していただけるかもしれませんが、大きな怪我にも関わらず、痛みはそこまで無い事がよくあります。
前十字靭帯断裂。全治6〜9ヶ月。
医師の診断を聞いた時、何も考えられませんでした。というか、何も考えたくありませんでした。
現実を受け入れられませんでした。
今シーズンがほぼ絶望になりました。
もし仮に復帰できたとしても、Bチームの日本一に貢献することも、TOPチームで活躍することも難しいと思いました。
もう一度サッカーをする恐怖も感じました。膝の怪我の再発率は高く、実際に再発する先輩や仲間を目の前で見てきました。入院時にはサッカーを観ることすら怖くてできませんでした。
こうして、私の「リベンジマッチ」は呆気なく幕を閉じました。
「もう一度サッカーをする意味はあるのか」
「何の為にサッカーをするのか」
とりあえずグラウンドに行ってリハビリをしていましたが、心の迷いは消えませんでした。
この時期に大きな怪我をした4年生は、プレーヤーを辞めて一足先に新たな道に進むのが一般的でした。私は突然、人生の岐路に立つ事になりました。
今後について考える事を放棄した事もありました。何も考えず、ただ目の前の事をこなすだけの日々も過ごしました。何事にも、力は入りませんでした。
それでも、同期は「家田ともう一度サッカーがしたい」と声をかけてくれました。
先輩からも「お前の事を応援している」「辛かったら連絡して来い」とメッセージを頂きました。
こんなに自分の事しか考えられていない人間にも、帰りを待ってくれる仲間がいました。
「待っていてくれる仲間のためにも自分のプレーする姿を見せたい」と、少しずつ思うようになりました。
それからは、成長していくチーム、同期や後輩を横目に地道な筋力トレーニングや走り込みに取り組みました。自分の身体に鞭を打ちながら、毎日グラウンドに通いました。
グラウンドに行くと、自分を復帰させる為に鬼のようなメニューを毎日組んでくれる仲間がいました。
自分が走っていると、「家田いこう!」と声をかけてくれる仲間がいました。
練習後の雑談中にも自分の復帰時期を頻繁に気に掛けてくれる仲間がいました。
病院に行くと、顔を顰めながらも復帰の目処をなんとか立てようとしてくれる仲間がいました。
仲間が自分の迷いを、復帰するための力に変えてくれました。
辛いリハビリでも、仲間の力を借りて、なんとか乗り越えてきました。
寒い時期が過ぎ、徐々に暖かくなり、めまいがするほど暑くなり、また肌寒さが戻ってきました。
「もう一度サッカーがしたい」と思うようになりました。チームを勝たせるゴールを決める仲間や、うまくいかなくてもなんとかチームをまとめ上げようとする同期を見て、沢山の刺激をもらいました。気づけば恐怖心や迷いは無くなっていました。
仲間の為、そう思っていると自分が出ていなくても試合中や練習中に声を張り上げるようになっていました。「自分が勝たせなければ嬉しくない」と思っていた私が、嘘のようにチームの勝利に喜びました。
そして、残り2節となったリーグ戦に途中出場ではありましたが試合に復帰することができました。その時の感覚は忘れることができません。
仲間の為、なんて事を書きましたが、プレーして感じたことは、「サッカーが楽しい」ということだけでした。サッカーがやりたいと母親に直談判した小学生の時のような感情でした。
そして、出場できるようにしてくれた全ての仲間に対しての感謝と共に、最終節は必ず勝つという気持ちでした。試合は敗れてしまいました。
「最終節は4年生中心で行く」
ヘッドコーチの齋田さんと4年生で決めました。後輩のみんなもそれを了承してくれました。私以外の4年生も身体に無理言わせている状況で、ギリギリではありましたが、なんとか試合に出て勝たせるという強い気持ちを皆んなが持っていました。必ず試合に出て勝つ。そう思っていました。
しかし、最終節のピッチに自分はいませんでした。
その週の練習で捻挫をしてしまい、痛みが強く出場できないと判断しました。強引に出場する事もできましたが、ほぼ歩くことしかできない自分が出場しても迷惑だと思いました。
捻挫した日の夜は、痛みと絶望で寝られませんでした。涙が止まりませんでした。ただただ、自分が情けないと思いました。自分を復帰させるために頑張ってくれた人に申し訳ないと思いました。
最終節は4年生を中心にチームが1つになり、勝利することができました。私は今までの試合の勝利で最も嬉しい気持ちと共に、出場できなくて悔しく、情けない気持ちでした。自分の感情が分からなくなりました。
皆んながやり切った表情で最後の話をする中、私は松葉杖をつきながら出られなくて申し訳ないという事と、最後の公式戦にはなんとしても出るという事を伝えました。
最終節は終了してしまいましたが、中筑定期戦という長きに渡って行われてきた伝統ある試合が1週間後にありました。自分はその2軍戦というTOPチーム以外の4年生で出場する試合に出場するチャンスがまだ残されていました。
なんとしてでも出る。
出来ることは何だってしました。
1週間4年生チームの練習とBチームでのリハビリと治療院を往復し続けました。しかし、足首の状態はギリギリまで回復せず、全体練習に入ることはできませんでした。
しかし、もう試合に出るしかないと決め込んでいたので、テーピングを巻き、痛み止めを飲んで試合に出場する事を決めました。足首の状態も少しずつ良くなっていたので、出場出来るとトレーナーにも判断してもらえました。4年生もほとんど練習していない自分を試合に出す事を許してくれました。
そして、中筑定期戦で20分試合に出ることができました。その日は最高の環境で最高に楽しいサッカーができ、忘れられない日となりました。
私はこの日でサッカーを辞めようと考えていました。膝の怪我も足首の怪我もして、コンディションも悪く、到底良い状態には戻れないと思っていました。
しかし、この日でその考えは無くなりました。
もう少し、サッカーを全力でやりたい、楽しみたいと思いました。今は、残り僅かな期間ですが全力でサッカーに取り組んでいます。
最後に、サッカー人生を振り返ってみて、
「不運」だと感じたことは何回もありました。
何年努力しても敵わないのではないかと思うほどの実力差を見せつけられた事もありました。
これからだ、という時に大怪我を負ってサッカーができなくなった事もありました。
最後の試合を目前にして怪我をしてしまい、ピッチに立てなくなった事もありました。
でも、「不幸」だと感じたことは一度もありませんでした。
常にレベルの高く、恵まれた環境でサッカーをさせてもらいました。
最高な仲間と共に素晴らしい時間を過ごすことができました。
仲間の為に闘う強い気持ちを得ることができました。
私のサッカー人生は幸せでした。
卒業後はしばらくサッカーから離れますが、またサッカーがしたくて私はどこかでボールを蹴っているのではないかと思います。私はより一層サッカー小僧になったようです。
部員の皆んなへ
Bチームのシーズンは幕を閉じましたが、TOPチームはインカレで日本一になるチャンスがあります。私達の代は入学してからまだ1回も、日本一になれていません。涙する先輩方の姿は忘れられません。そんな先輩方の思いも背負って、全員の力で、必ず頂に登りましょう。
読んでいただき、ありがとうございました。
最後になりますが、今後も筑波大学蹴球部へのご支援、ご声援をよろしくお願いいたします。
筑波大学蹴球部
体育専門学群4年
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#178 不運と不幸(家田航輔/4年)
WRITER:家田航輔
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