#37 こんにちは(岡田祐輝/4年)



こんにちは。
人文学類4年の岡田祐輝と言います。



不特定多数の方が閲覧することのできるブログに、自分の拙い文章がのることは恥ずかしくて、本当は書きたくありませんでしたが、是非書いてくれということなので書かせてもらいます。



これまでの蹴球ブロガーはサッカーのことや大学のこと、自分のアツイ気持ちについて書いている人が多いので、自分はただ家族についてだけ書かせてもらいます。本当にただそれだけです。サッカーのことや大学のことを書くと同じような文章になりそうで、面白くないなと思ったからです。僕の家族に興味がない方はここで読むのをやめて下さい。




僕は三重県出身で男3人兄弟の5人家族です。筑波に来るまでは三重から出たことはありませんでした。僕は次男で、兄は2歳、弟は5歳離れています。僕がサッカーをやり始めたのも特に理由はなく、兄がやっていたからです。



2歳しか離れていない兄とは、小さい頃よく喧嘩しました。今でもかすかに覚えているのは、僕のあせもと兄のアトピーをお互いでののしり合って喧嘩したことです。その時はなぜか僕だけが母親にど叱られたので覚えているのだと思います。猪突猛進タイプですぐに周りが見えなくなる僕と違って、兄は何をするにしても効率がよく、しっかりしています。



弟は5歳も離れているのであまり喧嘩した記憶はありません。今でもかわいい弟です。筑波大学蹴球部に入り、少年サッカーのコーチをやらせてもらうようになって初めて気付いたことの1つに、年が離れた兄弟は兄(達)がサッカーの試合や練習をしているとき、ほったらかしだということがあります。兄と僕が毎週末のようにサッカーの試合をしている中、弟は遠い試合会場でも連れて行かれ、そこで何をするでもなくただ暇つぶししていることが多かったような気がします。弟には僕のサッカーのせいで色々と振り回させてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。



父親は優しくて本当にだめなことをするまでは、基本何でも許してくれていたような気がします。今でも自分の進路について、僕が大学院に進学したいと言い出したときも、特に反対することなく許してくれました。



ここまでダラダラと書いてきましたが本当に書きたかったことは母親についてです。



自分の母親は僕が中学3年のころに癌でなくなりました。だいぶ前の話なのであまりはっきりと覚えていませんが、そのときのことを書きたいと思います。


最期の日は普通に学校に行っていたのですが、家から学校に電話がかかってきて、すぐに家族でホスピスに向かいました。


病室に着いて母親を見たとき、悲しいというより正直驚きの方が強く、現実感がなかったのを覚えています。母親は前回、病院であったときとは全然違い、頬がこけて目もおちくぼんでいました。母は話も出来ないぐらい弱っていて、ずっと寝込んでいたらしいのですが、僕たちが居るのに気づいて起き上がり、話してくれました。


そのとき何を話してくれたかは、細かく覚えていませんが、はっきりと覚えている言葉は「私の子供に産まれてくれてありがとう、何もしてあげられなくてごめんね」です。兄弟一人一人に何か言いたいことはあるか、とも聞いてくれたんですが、撲と弟は泣きすぎて何も言えませんでした。兄は泣きながら「ありがとう」と言っていました。僕もありがとうって言っておけば良かったと後悔してます。そのあとまた寝込んで逝ってしまいました。


悲しいときに「胸が痛む」という表現をよく使いますが、そのときは泣きすぎて、本当に物理的に胸が2,3日の間痛かったのを覚えています。母親は、家族一人一人に手紙も残してくれました。今も大事にとってます。




ここまで書いてきて、天国にいる母親のためにも頑張ろうと思うようになった、とかそのような話の流れになりそうですが、特にそんな気持ちには不思議となりませんでした。



ただ自分で言うのもあれですが、母親がいなくなってから人の気持ちを考えることのできる優しい人間になれたような気がします。



サッカーに対するアツイ気持ちや、蹴球部への思い、ギラギラした文章を期待されていた方には申し訳ないですが、これで僕の話は終わりです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



筑波大学蹴球部4年
人文文化学群人文学類
岡田祐輝